この人を見よ』

 ニーチェ著 手塚富雄訳 岩波文庫


序言

1
 わたしは近いうちに、これまで人類に突きつけられた要求の中でのもっともむずかしい要求を人類に突きつけねばならなくなるだろう。そのことを予測して、わたしには、わたしが何びとであるかを述べておくことは、どうしてもしておかなければならぬことのように思われる。もっとも、本当のことを言えば、それは一般に知られていいはずなのだ。わたしはこれまで、自分というものを「身元不明のまま」にしておいたことはなかったのだから。しかし、わたしの使命の偉大さと、わたしの同時代者たちの卑小さとの間の不均衡はあまりに大きく、その結果、誰もわたしに耳を傾けず、目もむけないということになってきた。つまりわたしがこの世に生きているのは、ひとには一切資金を仰がず、ただ自分自身のもとでにたよっているようなものだ。それとも、わたしが生きているというのは、単なる独り合点にすぎないのかもしれない?……オーバー・エンガディーンへ避暑にくる誰かひとりの「教養人」に話しかけてみさえすれば、わたしが生きていないということは、すぐにはっきりわかるのだ…こういう事情であるから、本来はわたしの習慣に反し、それ以上にわたしの本能の誇りに反することではあるが、次のように言う義務がわたしに生じてくるのである。わたしの言を聴け!わたしはしかじかの者だから。何よりも、わたしを取り違えてくれるな!と。
2
 わたしは、たとえば、断じて案山子ではない、道徳幽霊ではない、――それらのものでないどころか、わたしは、従来有徳者として尊敬されてきたようなたぐいの人間とは正反対の生まれである。打ち明けていえば、ほかならのこのことが、わたしの誇りの一つになっているらしい。わたしは、哲人ディオニュソスの弟子である。わたしは、聖者になるよりは、いっそサテュロスになることを選ぶだろう。それはそれとして、とにかく、この書を読んでほしい。おそらくはこの書はうまく書かれているだろう。おそらくはこの書は、上述の対立を、ほがらかな、愛想のいい書き方で表現するということの外には、なんの意味ももっていなかったのだろう。わたしがいまここで絶対に予告しないであろうことは、人類を「改善する」ということだ。わたしは新しい偶像を建てる者ではない。ただ古い偶像どもが、その粘土製の脚の値うちを思い知ればいいのだ。偶像(これが「理想」に相当するわたしの用語だが)を転覆すること――このことが、すでに前からわたしの職業なのだ。これまで世人は、かれらが理想的世界なるものを捏造した度合いに応じて、この現実の世界から、それのもつ価値、意味、真実性を奪っていたのだ……つまり、ドイツ語で「真の世界」と「仮象の世界」と言われるものの種を明かせば「真の世界」とは捏造された世界であり、「仮象の世界」といわれているのが現実の世界なのだ……理想という嘘が、これまで現実の世界にかけられた呪いであったのだ。人類そのものが、この嘘によって、その本能の奥底に至るまで、うそつきになり、にせものになってしまったのだ―ついには、これこそはじめて人類に繁栄と未来と未来を獲得すべき高い権利とを確かにもたらすだろうと思われるほんものの諸価値とは逆の諸価値が崇拝されるに至ったのである。
3
―わたしの著書の空気を呼吸するすべを心得ている者は、それが高山の空気、強烈な空気であることを知っている。ひとはまずこの空気に合うように出来ていなければならぬ。さもないと、その中で風邪をひく危険は、けっして小さくはない。氷はまぢかだ。孤独はぞっとするほどだ。――しかし、なんと安らかに万物は光の中に横たわっていることか!なんと自由にわれらは呼吸できることかなんと多くのものがわれらの下位に感じられることか!――わたしがこれまで理解し、身をもって生きてきた哲学は、自ら進んで氷と高山の中に生きることであるのだ――生存における一切の異様なものと疑わしげなものを摘発することであり、道徳によって従来追放されていた一切のものを救出することである。このように禁断の国を遍歴することによって得た長期間の経験から、わたしは、従来の道徳化と理想化との根源にあった諸原因を、世人にとっては好ましいであろう見方とはまったく違った見方で見ることを習得した。哲学者たちの裏面史、かれらのつくりだしたもろもろの名称にからむ心理学が、わたしには明らかになった。――一個の精神が、どれだけ真実に耐えるか、どれだけ真実を敢行するか?これが、わたしにはますます本来の価値基準になってきた。誤謬(――理想への信仰――)を生むのは盲目ではない、臆病である。……認識における成果と前進はすべて、勇気から、自己にたいする苛烈さから、自己にたいする潔癖が生じるのだ……「われらは禁ぜられたるものを好む」この旗印のもとに、わたしの哲学は、いつの日か勝利をおさめるだろう。世人はいままで、原則的にはいつも真実だけを禁じてきたのだから。
4
わたしの著作のうち、独自の位置をしめているのは『ツァラトゥストラ』である。わたしはこの書で、これまで人類に贈られた最大の贈り物をした。何千年の未来へ響く声をもつこの書は、およそこの世にある最高の書、本当の
高山の書であるばかりでなく――人間という事実の全体がこの書物のおそろしいほど遥か下方に横たわっている――それはまた、真理のもっとも内奥のゆたかさから生れ出た最深の書であり、つるべをおろせばかならず黄金と善意とがいっぱいに汲み上げられてくる無尽蔵の泉である。ここで語っているのは「予言者」ではない。教祖と呼ばれる、あの病気と権力意志との、ぞっとするようなあいの子のたぐいではない。ひとは何よりもまず、この人物の口から発せられる調子、あの晴れた冬空に似た静穏な調子を、正しく聴きとらなければならぬ。そうしてこそ、かれの英知にふくまれた意味をみじめに誤解することがなくなるのだ。「嵐をもたらすものは、もっとも静寂な言葉だ。鳩の足で歩んでくる思想が、世界を左右するのだ――」
 いちじくの木の実が木から落ちる。それはふくよかな、甘い果実だ。落ちながら、その赤い皮は裂ける。わたしは熟したいちじくの実を落とす北風だ。
 このようにいちじくの実に似て、これらの教えは君たちに落ちかかる。さぁ、しの果汁と甘い果肉をすするがいい。時は秋だ、澄んだ空、そして午後――
 ここで語っているのは、狂信家ではない。ここで行われているのは「説教」ではない。ここで求められているのは信仰ではない。無限の光の充溢と幸福の深みから、一滴また一滴、一語また一語としたたってくるのだ。ねんごろな緩徐調が、この説話のテンポである。こういう調子は、選り抜き人々の耳にしかはいらない。ここで聴き手になれるということは、比類のない特権だ。ツァラトゥストラの言葉を聴く耳をもつことは、誰にでも許されていることではないのだから……。だがそれにしても、ツァラトゥストラは、つまるところ一個の誘惑者ではなかっただろうか?……しかし、かれがはじめて自分の孤独の中へ帰っていくとき、かれはみずからどういうことを言ったろう?それはどこかの「賢者」「聖者」「世界救済者」、その他のデカダンが、こういう場合に言いそうなことは、まったく正反対に違っていることである……かれの語り方が違っているばかりではない、かれのあり方が違っているのである……
 弟子たちよ、わたしはこれから独りとなって行く。君たちも今は去るがよい、しかもおのおのが独りとなって。そのことをわたしは望むのだ。
 まことに、わたしは君たちに勧める。わたしを離れて去れ。そしてツァラトゥストラを拒め。いっそうよいことは、ツァラトゥストラを恥じることだ。かれは君たちを欺いたかもしれぬ。
 認識の徒は、おのれの敵を愛することができるばかりか、おのれの友を憎むことができなくてはならぬ。
 いつまでも弟子でいるのは、師に報いる道ではない。なぜ君たちはわたしの花冠をむしり取ろうとしないのか。
 君たちはわたしを敬う。しかし、君たちの尊敬がくつがえる日が来ないとはかぎらないのだ。そのとき倒れるわたしの像の下敷きとならないよう気をつけよ。
 君たちは言うのか、ツァラトゥストラを信ずると。しかしツァラトゥストラそのものになんの意味があるか。君たちはわたしの信徒だ。だがおよそ信徒というものになんの意味があるか。
 君たちはまだ君たち自身をさがし求めなかった。探し求めぬうちにわたしを見いだした。信徒はいつもそうなのだ。だから信ずるということはつまらないことだ。
 いまわたしは君たちに命令する、わたしを捨て、君たち自身を見いだすことを。そして君たちのすべてがわたしを否定することができたとき、わたしは君たちのもとに帰ってこよう……

フリードリヒ・ニーチェ

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